佐藤義則

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曖昧さ回避 1989年生のプロ野球選手の「佐藤由規」とは別人です。
佐藤 義則
関メディベースボール学院 統括投手コーチ #71
東京ドームにて(星野)(2018年)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 北海道奥尻郡奥尻町
生年月日 (1954-09-11) 1954年9月11日(69歳)
身長
体重
181 cm
86 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1976年 ドラフト1位
初出場 1977年5月11日
最終出場 1998年10月1日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
この表について
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プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

佐藤義則
YouTube
チャンネル
  • 佐藤義則チャンネル
活動期間 2016年12月20日 -
ジャンル 野球
登録者数 1.41万人
総再生回数 2,011,791回
チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002022-10-25-00002022年10月25日時点。
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佐藤 義則(さとう よしのり、1954年9月11日 - )は、北海道奥尻郡奥尻町[1]出身の元プロ野球選手投手)。コーチ野球解説者野球評論家。佐藤義則事務所所属。

経歴

アマチュア時代

北海道奥尻郡奥尻町出身。奥尻ブレークスで本格的に野球を始め、奥尻中学校では中学3年の時に函館地区で優勝して全道大会に出場した[1]。卒業後、函館有斗高校に進学して上野美記夫の指導を受ける。エースとして1972年春季北海道大会決勝に進み、苫小牧工業高校の工藤敏博(法政大学)と投げ合い完封勝利で優勝[1]。同年夏の甲子園南北海道予選も決勝に進出するが、今度は苫小牧工業高校に0-2で惜敗し甲子園出場を逸する[1]。卒業後は日本大学に進学[1]。当時の日本大学は低迷期にあり、東都大学野球リーグでは、1974年秋季リーグ後に二部降格(1季のみ)も経験する。しかし1976年秋季リーグでは8勝4敗の好成績をあげ、シーズン78奪三振(東都大学野球リーグでは円子宏の83奪三振に次ぐ当時第2位)を記録した[1]。また1974年、1976年の日米大学野球選手権大会日本代表、1975年の第11回アジア野球選手権大会日本代表に選出されている。一部リーグ通算62試合登板、22勝21敗、防御率2.48、242奪三振。大学同期には和泉貴樹日立製作所-日本大学監督)らがいる。同年秋のドラフト会議で阪急ブレーブスの1位指名を受け入団した[1]。契約金は3000万円、年俸は300万円(金額は推定)、背番号は「11[2]

プロ時代

1977年、5月21日の対日本ハムファイターズ戦(阪急西宮球場)で9回1失点で完投でプロ初勝利[3]、9月4日の対ロッテオリオンズ戦(明治神宮野球場、ダブルヘッダー第1試合)ではプロ初完封勝利を飾った[4]。シーズンでは7勝を挙げて新人王に選出された[1][5]。この年の日本シリーズにも登板する。オフの12月16日の契約更改では70パーセント増の推定年俸520万円でサインした[6]

1978年には初めてオールスターゲームに出場した。シーズンでも13勝を記録し、初めて規定投球回(リーグ13位、防御率3.62)に到達[7]。しかしヤクルトスワローズとの日本シリーズではベンチ入りするも故障のため登板がなかった。山口高志の故障離脱もあって山田久志今井雄太郎の負担を増すこととなった。

1979年も10勝と順調に勝ち星を重ねたが、1980年は4勝13敗と大きく負け越した[7]

1981年にはぎっくり腰を発症してのため一軍登板がなく、一時期任意引退扱いとなった[7]

1982年リリーフ投手として4勝13セーブ、翌83年も1勝16セーブと守護神として復活した[7]

1984年から先発投手に復帰し、4月17日の対日本ハム戦(後楽園球場)で9回7失点でシーズン初勝利である4年ぶりの完投勝利を挙げた[8]。5月8日の対日本ハム戦(後楽園球場)では1979年4月12日以来の完封勝利[9]、6月28日の対南海ホークス戦(大阪スタヂアム)でシーズン2度目の完封で10勝目を挙げた[10]。9月は4日の対日本ハム戦(後楽園球場)[11]、19日の対西武ライオンズ戦(岡山県野球場)で計2度の完封勝利を挙げ[12]、シーズンでは17勝6敗、防御率3.51(リーグ5位)、リーグ最多の136奪三振で[7]、同年のリーグ優勝に貢献した。オフの12月4日の契約更改では約130パーセント増の推定年俸2500万円でサインした[13]

1985年、6月は5試合に登板し、4完投勝ちを含む5勝を挙げ、初の月間MVPに選出された[14]。9月26日の対西武戦(阪急西宮球場)で9回4失点完投勝ちでシーズン20勝目を挙げ[15]、シーズンでは21勝で最多勝利のタイトルを獲得[16]。2年連続リーグ最多の奪三振を記録し、リーグ優勝した西武戦で最多の8勝を挙げる[7]。この年の防御率はパ・リーグ10位の4.29であり、これは最多勝利を受賞した投手としては1リーグ時代及びセ・リーグ側の受賞者全員を含めた中でも歴代で最も悪い数字である(2018年時点)。また、彼の後にパ・リーグで20勝以上を挙げる投手は、2003年斉藤和巳まで現れなかった。10月11日に出身地の奥尻町から1985年度の町功労賞が表彰されることが決定した[17]。オフの12月19日の契約更改では45パーセント増の推定年俸3800万円でサインした[18]

1986年、4月10日の対南海戦(大阪スタヂアム)で9回1失点でシーズン初勝利を完投で飾った[19]。 5月4日の対西武戦(西武球場[20]、同月10日の対南海戦(大阪スタヂアム)で2試合連続完封勝利を記録した[21]が、6月16日に右肘を痛め、出場選手登録を抹消された[22]。復帰後、7月28日の対西武戦(阪急西宮球場)で完封勝利[23]。8月は17日の対近鉄バファローズ戦(藤井寺球場、9回7失点)[24]、24日の対南海戦(大阪スタヂアム、9回1失点)[25]、28日の対日本ハム戦(阪急西宮球場、完封)で勝利し、3試合連続無四球完投を記録した[26]。シーズンでは14勝6敗、防御率2.83の好成績を記録、最優秀防御率のタイトルを獲得した[27]。オフの12月16日の契約更改では3パーセント減の推定年俸3700万円の掲示を保留[28]、翌1987年1月13日の2度目の契約更改では現状維持の推定年俸3800万円でサインした[29]

1987年はそれまで12年連続で開幕投手を務めていた山田久志に代わってプロ入り11年目で初の開幕投手を務めた[30]。4月10日の南海との開幕戦(阪急西宮球場)では5回6失点、4点ビハインドで降板されるが、9回裏にブーマー・ウェルズ満塁本塁打で同点に追い付き、最終結果は6-6で9回時間切れ引き分けとなった[31]。同月26日の対日本ハム戦(後楽園球場)で9回5失点完投でシーズン初勝利[32]、5月16日の対南海戦(阪急西宮球場)ではシーズン唯一の完封勝利を挙げる[33]もシーズンはわずか7勝に終わっている。

1988年、4月8日の近鉄との開幕戦(阪急西宮球場)では9回途中まで淡口憲治ベン・オグリビーに計3本塁打を打たれ、敗戦投手となった[34]。同月23日の対日本ハム戦(阪急西宮球場)では9回1失点完投でシーズン初勝利[35]、8月21日の対近鉄戦(藤井寺球場)で8回3失点でシーズン10勝目を挙げ[36]、シーズンではリーグ1位の5完封[注 1]を含む、同僚の星野伸之とともに13勝を挙げた[42]。オフの12月26日の契約更改では1000万円増の推定年俸5400万円でサインした[42]

1989年、4月9日の近鉄との開幕戦(藤井寺球場)に開幕投手としてマウンドに上がり完封勝利を挙げる[43]と、好調を維持し、5月20日の対ロッテ戦(秋田市営八橋球場)で6連勝を記録[44]。6月終了の時点で8勝2敗と首位のチームを引っ張る。しかし、7月以降全く勝てなくなってしまい、背信の投球から途中リリーフに回るなどもしたが改善せず、8月13日の対西武戦では9回1点差で一死一・二塁の場面でリリーフ登板するも2四球で押し出し同点。更に次のバッターオレステス・デストラーデに逆転サヨナラ満塁本塁打を打たれて敗戦投手となった[45]。10月13日の対ロッテ戦(川崎球場)、この試合に負けると優勝の可能性が完全に無くなる試合でも先発として登板し、4回までノーヒットピッチングだったが5回に突如崩れ敗戦し優勝を逃す[46]。シーズンでは9勝13敗で7月以降では1勝11敗の成績であった。

1990年、この年も開幕は絶好調で、5月を終わった時点で6連勝を記録したが、6月に3連敗すると7月1日に一軍登録を抹消[47]。オールスター明けに復帰、7月31日の対近鉄戦(大阪スタヂアム)で後半戦初登板を勝利で飾った[48]が、8月に4連敗し再び登録を抹消されそのままシーズンを終える形となった。オフの12月18日の契約更改では約4パーセント減の推定年俸5000万円でサインした[49]

1993年、4月11日の対千葉ロッテマリーンズ戦(グリーンスタジアム神戸)では7回途中まで投げ、2失点でシーズン初勝利[50]、5月28日の対ダイエー戦(福岡ドーム)では完封勝利を挙げた[51]。同年はオールスターゲームに選出され、7月21日の第2戦(グリーンスタジアム神戸)に登板し、2回4奪三振2失点を記録した[52]が、7月12日には出身地の奥尻島が北海道南西沖地震およびそれに伴う火災津波によって壊滅的被害を受けていた。また、この震災で叔母を亡くしており、すぐにでも故郷へ帰りたい気持ちをこらえての力投だった。8月11日の対日本ハム戦(グリーンスタジアム神戸)ではシーズン2度目の完封勝利を果たした[53]。シーズンでも4年ぶりの規定投球回クリアした。オフの12月4日の契約更改では2000万円増の推定年俸9000万円でサインした[54]

1994年、4月12日の対日本ハム戦(東京ドーム)では9回1失点完投でシーズン初勝利を挙げた[55]。続く同月19日の対ロッテ戦(グリーンスタジアム神戸)では通算150勝を完封で飾った[56]。同年もオールスターゲームに選出され、7月20日の第2戦(ナゴヤ球場)で先発し、3回1失点の好投を見せた[57]。なお、オリックスの投手がオールスターゲームに先発登板したのは、この年の佐藤以降では2019年の第2戦に山岡泰輔が先発するまで、25年経っていた。この年以降オリックスの本拠地球場(大阪近鉄バファローズとの合併後京セラドーム大阪も含める)で開催されたオールスターゲームは2000年の第2戦(グリーンスタジアム神戸、現ほっともっとフィールド神戸)、2008年の第1戦(京セラドーム大阪)、2012年の第1戦(京セラドーム大阪)、2018年の第1戦(京セラドーム大阪)でそれぞれ開催されたが、パ・リーグはいずれもオリックス以外の投手が先発している[注 2]。シーズンでは開幕から主軸投手が軒並み不振の中同じベテランの山沖と共に好調を維持し前半だけで8勝3敗と最多勝争いにも加わっていたが、後半戦1勝もできず5連敗でシーズンを終えてしまった。オフの12月28日の契約更改では2500万円増の推定年俸1億1500万円でサインした[58]

1995年には、自身の所属するオリックス・ブルーウェーブの本拠地である神戸が阪神・淡路大震災に襲われ、一時は試合開催も危ぶまれる大被害を受けた。この年は4月1日の対ロッテ戦(グリーンスタジアム神戸)で40歳にて開幕投手に指名され[59]、試合では7回2失点、1点ビハインドで降板されるが、7回裏二死無走者から味方が連続二塁打で同点にし、8回裏に勝呂壽統の決勝本塁打でチームは3-2で勝利した[60]。同月16日の対西武戦で9回1失点完投でシーズン初勝利を挙げた[61]。8月26日の対近鉄戦(藤井寺球場)で当時NPB史上最年長[注 3]、NPB史上初となる40歳以上でのノーヒットノーランを達成[62]。チームは「がんばろうKOBE」を合言葉に一丸となって結束し、最終的には1984年以来、11年ぶりのリーグ優勝を果たす。ヤクルトと対戦した日本シリーズでは経験を買われて第1戦(グリーンスタジアム神戸)に登板したが、5回途中まで投げ、3失点で敗戦投手となった[63]。シーズンの終了後には北海道新聞スポーツ賞の特別賞に選出された[64]。オフの12月19日の契約更改では現状維持の推定年俸1億1500万円でサインした[65]

1996年頃から衰えが顕著になり登板数も激減、同年チームはパ・リーグ連覇を果たしたものの、日本シリーズでも登板機会が与えられなかった。

1998年シーズンを最後に、同年9月21日に現役引退を発表[66]。同月29日にパ・リーグから功労賞を授与されることが決定[67]。10月1日のロッテ戦(グリーンスタジアム神戸)で引退試合が行われた。自身は先発登板し、2回2失点でマウンドを降りた。試合後には引退セレモニーが行われた[68]。佐藤は関係者やファンに感謝を伝えると、最後は同僚に胴上げされた[69]

落差の大きな独特の変化球は「ヨシボール」と呼ばれた。このボールは、指が短くてフォークボールが投げられない佐藤が「人差し指と中指で挟めないなら親指と人差し指で挟もう」という考えで編み出したものである。

また、時速140km/h台の速球を引退まで投げ続けることができた。現役時代、戎信行を指導した[70]

現役引退後

1999年から2000年まで、オリックスで二軍投手コーチを務めた[71]。また、出身地の奥尻島町は、現役時代の背番号にちなんで、1999年11月11日に「佐藤義則野球展示室」を開設した[72]

2001年には、関西地方を拠点に、J SPORTS野球解説者デイリースポーツの野球評論家を務めた。

2002年から2004年まで、阪神タイガースで一軍投手コーチを担当。井川慶をエースに育てた[70]ほか、オーバースローからサイドスローへ転向したばかりの吉野誠を「勝利の方程式に組み込む[73]など、投手陣の底上げに尽力した。2003年には、この年に入団したジェフ・ウィリアムスをシーズンの途中からクローザーに起用するなど、チーム18年振りのセントラル・リーグ優勝に貢献している。

2005年に他球団からも要請を受けたが[74]、地元球団の北海道日本ハムファイターズへ移籍。同年は、二軍投手コーチとして、武田久[70]ダルビッシュ有を育てた[75]。翌2006年に一軍投手コーチへ異動すると、前年のチーム防御率3.98(4位)からチーム防御率3.05(1位)に改善し、チーム25年振りのリーグ優勝と、44年振りの日本シリーズ制覇に貢献。2007年には球団史上初の連覇に導いた[76]が、日本シリーズ終了後の11月3日に、球団からコーチ契約を更新しないことを通告された。佐藤は、この通告に対して、一軍監督のトレイ・ヒルマンと球団フロントの姿勢を公然と批判。「いまさら言われても。ヒルマンだけ喜んでそれでいいのか、球団は謝っていたけど。1年契約だからずっと(日本ハムへ残るとは)は考えていないけど、時期が悪い。就職活動ができないよ。誠意がないよな。前もって決まっているなら言ってほしかったな。(球団が他球団への就職先を)探すのはできないと言っていた」との表現で怒りを露わにした[77]。その一方で、退団後にはプロ野球マスターズリーグ札幌アンビシャスへ加入。また、株式会社スーパーエージェントとの間でマネジメント契約を結んだ。

2008年には、北海道を主な拠点に、札幌テレビSTVラジオサンテレビ・J SPORTSの解説者、デイリースポーツの野球評論家として活動。2009年に、東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍投手コーチとして現場復帰を果たした。その一方で、2010年12月7日には、野球殿堂入り候補者名簿(プレーヤー部門)へ掲載された[78]

楽天の投手コーチ時代には、田中将大をエースに育て上げる[70]など、投手陣の整備に尽力。2011年からは、阪神時代(2002・2003年)に続いて監督の星野仙一を支えていた。星野の方針からヘッドコーチ格の立場で迎えた2013年[79]には、球団初のパ・リーグ優勝と日本シリーズ制覇に貢献した。

2014年には、5月26日に対東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)の指揮を急遽任された(試合は1 - 4のスコアで敗戦)。監督の星野が持病の腰痛で休養したことによる緊急措置だった[80]が、星野が腰椎椎間板ヘルニアと胸椎黄色靭帯骨化症を発症していることが後に判明したため、楽天球団では翌27日に星野の休養と佐藤の監督代行就任を発表した[81]。監督代行としては5月28日の対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)で初勝利[82]を挙げたものの、通算成績が23試合で9勝14敗(勝率 .391)にとどまったことから、球団では7月2日に二軍監督の大久保博元を一軍監督代行に据えることを発表。佐藤は一軍投手コーチに再び専念した[83]。結局、チームが序盤から低迷したままレギュラーシーズンを終えたため、シーズン終了後の10月14日にコーチ契約を更新しないことを球団から通告された[84]。11月8日に、福岡ソフトバンクホークスの一軍投手コーチに就任することが発表されている[85]

ソフトバンクでは、「ヨシボール」を教えることで武田翔太の一本立ちを後押し[86][87]、武田は2015年は13勝、2016年は14勝とエース格に成長した[7]。コーチ就任1年目の2015年には、チームのレギュラーシーズン防御率を昨年よりも防御率は0.1以上改善し[88]、リーグ1位に導き [89]、投手王国を構築し[7]、同年のリーグ優勝、日本一に貢献した。嘉弥真新也をサイドスローに転向させた[90]2017年にはチームのリーグ優勝と日本シリーズ制覇にも貢献したが、2017年の日本シリーズ終了後の11月5日に退団した[91]

2018年に、楽天の一軍投手コーチへ4年振りに復帰。レギュラーシーズンの当初はベンチ担当の役割を担っていたが、チーム成績の不振によって6月16日に梨田昌孝が一軍監督を辞任したことに伴って、ブルペン担当に回った。2019年には「テクニカルコーチ」という肩書で二軍の投手陣を指導していたが、シーズン終了後に退団した[92]

2020年からは、デイリースポーツ[93]の野球評論家に12年振りに復帰。ミヤギテレビ東日本放送東北放送仙台放送BS12(副音声)·BS松竹東急との間で、野球解説者としてのスポット契約を新たに結んだ。9月14日からは、クラブチームとして社会人野球へ参加している関メディベースボール学院の統括投手コーチを務めている[94]

2022年5月31日、DeNA対オリックス(横浜スタジアム)のレジェンドOB1打席対決に登板し、田代富雄と対戦して往年の投球を披露した[95][96][97][98]

指導した主な選手

  • 愛称は「ヨシ」。楽天への入団が決まった直後には、日本ハム時代の教え子であるダルビッシュ有が、当時楽天に在籍していた田中将大に対して電話で「ヨシさん(佐藤義則)の言うことは間違いない」というアドバイスを送った。より速い球を投げられるようダルビッシュ有のフォームを改良、上半身に負担のかかる田中将大のフォームを改造し、エースへと育てた。長所を消さず、個々に適したフォームを伝授する指導には定評がある[99][100]。佐藤は「ダルビッシュ、田中についてよく言われるんですけど彼らは甲子園で活躍して素質が違った。僕が見る前から完成されていたようなものです。個人的に印象に残っているのは武田久でしたね。僕が2005年に日本ハムの2軍投手コーチになった時に2軍監督の岡本から「壊れてもいいから徹底的に見てやってくれ」と本人と話し合いながら本人のやりたい方向に助言したら頑張ってくれた。1軍の抑えのエースに成長くれた」[101]と述べている。
  • 星野仙一からは「日本一の投手コーチ」と言わしめた。投手コーチを務めたオリックスの1球団を除いた阪神と日本ハムと楽天とソフトバンクの4球団で優勝していることから優勝請負人と言われている[102][87]。阪神以外の3球団では日本一になっている[103]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1977 阪急
オリックス
20 13 5 1 0 7 3 1 -- .700 474 109.2 104 11 50 2 5 75 4 0 48 47 3.86 1.40
1978 33 26 12 3 1 13 8 1 -- .619 814 194.0 176 22 73 1 6 114 3 0 88 78 3.62 1.28
1979 26 17 11 1 0 10 6 2 -- .625 696 155.1 177 22 65 1 4 92 1 0 85 74 4.29 1.56
1980 30 18 4 0 0 4 13 0 -- .235 615 135.2 135 30 81 0 4 93 2 1 98 88 5.84 1.59
1982 39 0 0 0 0 4 2 13 -- .667 351 82.2 68 7 47 2 1 64 6 0 24 23 2.50 1.39
1983 33 1 0 0 0 1 8 16 -- .111 240 54.2 48 8 28 2 2 52 0 0 29 25 4.12 1.39
1984 33 28 17 4 0 17 6 1 -- .739 886 210.1 177 19 106 2 6 136 2 0 85 82 3.51 1.35
1985 35 34 23 2 3 21 11 0 -- .656 1146 260.1 279 29 105 3 7 188 7 0 136 124 4.29 1.48
1986 21 20 13 4 4 14 6 0 -- .700 648 162.0 144 19 34 3 4 105 6 0 53 51 2.83 1.10
1987 27 20 9 1 0 7 8 3 -- .467 634 147.1 164 19 47 3 5 90 7 1 79 77 4.70 1.43
1988 25 25 14 5 1 13 10 0 -- .565 820 195.2 176 22 70 4 10 112 4 0 76 70 3.22 1.26
1989 28 25 7 1 0 9 13 0 -- .409 749 165.2 195 21 71 4 2 105 1 0 106 92 5.00 1.61
1990 17 17 7 0 0 7 7 0 -- .500 473 108.2 111 18 41 1 2 83 7 1 63 58 4.80 1.40
1991 28 7 1 0 0 3 8 8 -- .273 326 70.1 83 4 32 1 3 62 5 0 33 33 4.22 1.64
1992 21 13 5 1 1 9 5 3 -- .643 472 115.0 100 17 35 0 4 86 3 0 44 41 3.21 1.17
1993 21 21 6 2 0 9 8 0 -- .529 597 142.0 123 10 55 0 2 99 3 0 62 56 3.55 1.25
1994 20 19 5 1 0 8 8 0 -- .500 552 130.1 126 14 42 2 2 93 5 0 54 51 3.52 1.29
1995 16 15 2 1 0 4 2 0 -- .667 365 86.1 82 7 29 0 4 57 2 0 39 37 3.86 1.29
1996 10 6 0 0 0 1 2 0 -- .333 151 30.2 39 3 21 0 2 21 4 0 21 19 5.58 1.96
1997 10 9 0 0 0 4 3 0 -- .571 197 43.1 50 5 22 1 0 22 1 0 23 21 4.36 1.66
1998 8 1 0 0 0 0 0 0 -- ---- 38 8.2 11 1 1 0 0 6 0 0 5 5 5.19 1.38
通算:21年 501 335 141 27 10 165 137 48 -- .546 11244 2608.2 2568 308 1055 32 75 1755 73 3 1251 1152 3.97 1.39
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更

通算監督成績

  • 23試合 9勝14敗0分 勝率 .391 (2014年、楽天・星野監督欠場に伴い監督代行)

タイトル

表彰

  • 新人王 (1977年)[5]
  • 月間MVP:3回 (1985年6月[14]、1990年5月[104]、1992年7月[105]
  • 奥尻町功労賞(1985年)[17]
  • 北海道新聞スポーツ賞 特別賞(1995年)[64]
  • パ・リーグ功労賞(1998年)[67]

記録

初記録
節目の記録
  • 1000投球回:1985年5月15日、対近鉄バファローズ6回戦(阪急西宮球場)、5回表三死目に達成
  • 1500投球回:1987年8月27日 対近鉄バファローズ19回戦(阪急西宮球場)、7回表二死目に達成
  • 1000奪三振:同上、8回表にベン・オグリビーから空振り三振 ※史上74人目[106]
  • 100勝:1988年4月30日、対ロッテオリオンズ4回戦(阪急西宮球場)、9回4失点(自責点2)完投勝利 ※史上95人目[107]
  • 2000投球回:1991年4月28日、対近鉄バファローズ4回戦(藤井寺球場)、2回表二死目に達成 ※史上69人目
  • 1500奪三振:1993年7月9日、対福岡ダイエーホークス14回戦(グリーンスタジアム神戸)、5回表に浜名千広から ※史上35人目[108]
  • 150勝:1994年4月19日、対千葉ロッテマリーンズ1回戦(グリーンスタジアム神戸)、9回完封勝利 ※史上39人目[109]
  • 2500投球回:1995年8月15日、対千葉ロッテマリーンズ17回戦(グリーンスタジアム神戸)、3回表一死目に達成 ※史上39人目
  • 500試合登板:1998年9月26日、対福岡ダイエーホークス26回戦(グリーンスタジアム神戸)、9回表二死に2番手として救援登板・完了 ※史上69人目[110]
その他の記録
  • 最多奪三振(当時連盟表彰なし):2回 (1984年、1985年) ※パシフィック・リーグでは、1989年より表彰
  • ノーヒットノーラン:1995年8月26日、対近鉄バファローズ19回戦(藤井寺球場) ※史上61人目[62][111]
  • オールスターゲーム出場:7回 (1978年、1984年、1985年、1988年、1989年、1993年、1994年)

背番号

  • 11 (1977年 - 1998年)
  • 75 (1999年 - 2000年、2002年 - 2004年)
  • 81 (2005年 - 2007年)
  • 71 (2009年 - 2014年、2018年 - 2019年)
  • 70 (2015年 - 2017年)

関連情報

書籍

  • 『絶対エース育成論:なぜ田中将大は24連勝できたのか?』(佐藤義則著、竹書房、2014年3月、ISBN 978-4-81-249926-9)
  • 『佐藤義則 一流の育て方:ダルビッシュ有・田中将大との1600日』(永谷脩著、徳間書店、2010年11月、ISBN 978-4-19-863071-3)
  • 『超一流の育て方:楽天イーグルス投手コーチ・佐藤義則とエースの5年間』(永谷脩著、KADOKAWA、2013年12月、ISBN 978-4-04-600086-6)

解説者としての出演番組

その他の出演番組

  • プロフェッショナル 仕事の流儀「まっすぐ戦う、勇気を持て プロ野球東北楽天ゴールデンイーグルス投手コーチ・佐藤義則」』(2012年4月23日、NHK総合
  • 『プロフェッショナル 仕事の流儀、人を育てる極意スペシャル』(2013年9月9日、NHK総合)

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ それぞれ、6月8日の対日本ハム戦(東京ドーム、無四球)[37]、6月15日の対近鉄戦(西京極球場[38]、7月6日の対近鉄戦(西京極球場)[39]、9月6日の対日本ハム戦(東京ドーム)[40]、9月22日の対ロッテ戦(阪急西宮球場)[41]で計5度の完封勝利を記録。
  2. ^ パ・リーグの先発投手は2000年第2戦は当時西武松坂大輔、2008年の第1戦は当時北海道日本ハムファイターズダルビッシュ有、2012年の第1戦は日本ハムの斎藤佑樹、2018年の第1戦は当時西武の菊池雄星である。
  3. ^ 2006年に中日の山本昌が更新。

出典

  1. ^ a b c d e f g h プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、256ページ
  2. ^ 「「V3の即戦力に」 阪急 11番・佐藤(函有斗→日大)を発表」『北海道新聞』(縮刷版) 1976年(昭和51年)12月16日付朝刊、12面(スポーツ面)。
  3. ^ a b 「佐藤義(函有斗 日大出)が初勝利 完投で"ハム"料理 阪急、首位へゲーム差「0」」『北海道新聞』(縮刷版) 1977年(昭和52年)5月22日付朝刊、13面(スポーツ面)。
  4. ^ a b 「佐藤義が初完封 第1 ロッテ 第2はやっと引き分け」『北海道新聞』(縮刷版) 1977年(昭和52年)9月5日付朝刊、13面(スポーツ面)。
  5. ^ a b 「MVP 二年連続で王(巨)と山田(急) プロ野球表彰選手決まる 新人王 斎藤明(大洋)と佐藤義(阪急)」『北海道新聞』(縮刷版) 1977年(昭和52年)10月29日付朝刊、15面(スポーツ面)。
  6. ^ 「プロ野球情報 佐藤義が一発更改」『北海道新聞』(縮刷版) 1977年(昭和52年)12月17日付朝刊、13面(スポーツ面)。
  7. ^ a b c d e f g h “星野仙一が“日本一の投手コーチ”と称賛した通算165勝右腕・佐藤義則「やっぱり投げるのは大事」 | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE (2021年2月7日). 2023年5月8日閲覧。
  8. ^ 「阪急 怒とうの一回表 全員安打、8連続安打、8連続得点」『北海道新聞』(縮刷版) 1984年(昭和59年)4月18日付朝刊、12面(スポーツ面)。
  9. ^ 「佐藤5年ぶり完封」『北海道新聞』(縮刷版) 1984年(昭和59年)5月9日付朝刊、15面(スポーツ面)。
  10. ^ 「佐藤、完封で10勝目」『北海道新聞』(縮刷版) 1984年(昭和59年)6月29日付朝刊、15面(スポーツ面)。
  11. ^ 「阪急ノンストップ ブーマー四冠へ」『北海道新聞』(縮刷版) 1984年(昭和59年)9月5日付朝刊、13面(スポーツ面)。
  12. ^ 「阪急まず1位確保 優勝M5 ブーマー37号3ラン 佐藤、4安打完封で17勝」『北海道新聞』(縮刷版) 1984年(昭和59年)9月20日付朝刊、17面(スポーツ面)。
  13. ^ 「プロ野球だより」『毎日新聞』(縮刷・関東版) 1984年(昭和59年)12月5日付朝刊、17面(スポーツ面)。
  14. ^ a b 「セ遠藤、パ佐藤 六月のMVP」『北海道新聞』(縮刷版) 1985年(昭和60年)7月7日付朝刊、15面(スポーツ面)。
  15. ^ 「佐藤 20勝一番乗り」『北海道新聞』(縮刷版) 1985年(昭和60年)9月27日付朝刊、15面(スポーツ面)。
  16. ^ a b 「パ・リーグ全日程終了 落合 五部門制す 最多勝利投手に佐藤(阪急)」『北海道新聞』(縮刷版) 1985年(昭和60年)10月23日付朝刊、14面(スポーツ面)。
  17. ^ a b 「佐藤投手に奥尻町功労賞」『北海道新聞』(縮刷版) 1985年(昭和60年)10月12日付朝刊、18面(スポーツ面)。
  18. ^ 「20勝・佐藤 3800万円 45%アップ」『北海道新聞』(縮刷版) 1985年(昭和60年)12月20日付朝刊、14面(スポーツ面)。
  19. ^ 「佐藤さすがの完投」『北海道新聞』(縮刷版) 1986年(昭和61年)4月11日付朝刊、15面(スポーツ面)。
  20. ^ 「佐藤、"レオ料理" マイペース、完封で3勝目」『北海道新聞』(縮刷版) 1986年(昭和61年)5月5日付朝刊、14面(スポーツ面)。
  21. ^ 「佐藤連続完封 南海ひねる」『北海道新聞』(縮刷版) 1986年(昭和61年)5月11日付朝刊、17面(スポーツ面)。
  22. ^ 「佐藤、右ひじ痛悪化 一軍登録外し、治療」『北海道新聞』(縮刷版) 1986年(昭和61年)6月16日付朝刊、15面(スポーツ面)。
  23. ^ 「復活・佐藤が完封 ブーマー2発、阪急4連勝」『北海道新聞』(縮刷版) 1986年(昭和61年)7月29日付朝刊、15面(スポーツ面)。
  24. ^ 「阪急 三回に大逆転 近鉄 投手陣総崩れ3連敗」『北海道新聞』(縮刷版) 1986年(昭和61年)8月18日付朝刊、18面(スポーツ面)。
  25. ^ 「阪急13安打10点 佐藤完投 防御率トップに」『北海道新聞』(縮刷版) 1986年(昭和61年)8月25日付朝刊、15面(スポーツ面)。
  26. ^ 「佐藤が4安打完封 コース突き3連続無四球」『北海道新聞』(縮刷版) 1986年(昭和61年)8月29日付朝刊、17面(スポーツ面)。
  27. ^ a b 「落合、3度目の3冠王 2年目横田 連続3割 最多勝、勝率は渡辺 パ公式戦終了」『北海道新聞』(縮刷版) 1986年(昭和61年)10月20日付朝刊、19面(スポーツ面)。
  28. ^ 「球界ルポ 16日 阪急・佐藤が保留」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1986年(昭和61年)12月17日付朝刊、17面(スポーツ面)。
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  30. ^ 「山田、栄光の座譲る パ・リーグ開幕投手 東尾、村田は10度目」『北海道新聞』(縮刷版) 1987年(昭和62年)4月9日付朝刊、15面(スポーツ面)。
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  32. ^ 「佐藤立ち直り完投 5連勝で10勝一番乗り」『北海道新聞』(縮刷版) 1987年(昭和62年)4月27日付朝刊、18面(スポーツ面)。
  33. ^ 「佐藤 今季 完封ショー 南海3連敗 投打にかげり」『北海道新聞』(縮刷版) 1987年(昭和62年)5月17日付朝刊、15面(スポーツ面)。
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  51. ^ 「佐藤義、円熟の完封 被安打5 ダイエーを手玉 オリックス5割に復帰」『北海道新聞』(縮刷版) 1993年(平成5年)5月29日付朝刊、19面(スポーツ面)。
  52. ^ 「奥尻思い熱投」『北海道新聞』(縮刷版) 1993年(平成5年)7月22日付朝刊、18面(スポーツ面)。
  53. ^ 「ハム完封負け 佐藤義8勝目」『北海道新聞』(縮刷版) 1993年(平成5年)8月12日付朝刊、18面(スポーツ面)。
  54. ^ 「オリックス佐藤義 9千万円でサイン」『北海道新聞』(縮刷版) 1993年(平成5年)12月5日付朝刊、18面(スポーツ面)。
  55. ^ 「佐藤完投 オリックス1勝 日ハムを6安打1点」『北海道新聞』(縮刷版) 1994年(平成6年)4月13日付朝刊、15面(スポーツ面)。
  56. ^ 「道産子 佐藤義が150勝 オリックス連敗を脱出」『北海道新聞』(縮刷版) 1994年(平成6年)4月20日付朝刊、18面(スポーツ面)。
  57. ^ 「39歳10ヵ月 佐藤が熱投」『北海道新聞』(縮刷版) 1994年(平成6年)7月21日付朝刊、16面(スポーツ面)。
  58. ^ 「佐藤2千5百万円増 オリックス」『北海道新聞』(縮刷版) 1994年(平成6年)12月29日付朝刊、13面(スポーツ面)。
  59. ^ 「最年長の開幕投手」『北海道新聞』(縮刷版) 1995年(平成7年)4月2日付朝刊、21面(スポーツ面)。
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  63. ^ 「日本シリーズ 第1戦 ヤクルト先勝 オリックス 拙攻響く」『北海道新聞』(縮刷版) 1995年(平成7年)10月22日付朝刊、19面(スポーツ面)。
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  103. ^ “「阪神、オリックスどちらも日本一に」両球団にゆかりのある佐藤義則氏が思い出の日本シリーズを述懐”. 『デイリースポ―ツ』. 2023年10月28日閲覧。
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  109. ^ 「記録メモ 佐藤(オリックス)通算150勝」『北海道新聞』(縮刷版) 1994年(平成6年)4月20日付朝刊、18面(スポーツ面)。
  110. ^ 「佐藤500試合登板」『北海道新聞』(縮刷版) 1998年(平成10年)9月27日付朝刊、19面(スポーツ面)。
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関連項目

外部リンク

  • 個人年度別成績 佐藤義則 - NPB.jp 日本野球機構
  • 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
  • 所属タレント プロフィール/Profile 佐藤 義則 - 株式会社ジャイロスコープ
 
業績
1930年代
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
脚注

ノーヒットノーラン達成投手のみ記載。☆印はポストシーズン(日本シリーズクライマックスシリーズ)での達成者。
完全試合達成投手についてはTemplate:日本プロ野球完全試合達成者を参照。

パシフィック・リーグ新人王
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
記述のない年は該当者なし
パシフィック・リーグ最多奪三振
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1989年にタイトル制定
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
パシフィック・リーグ最優秀防御率
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
阪急ブレーブス、オリックス・ブレーブス、オリックス・ブルーウェーブ開幕投手
1930年代
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
阪急ブレーブス - 1976年ドラフト指名選手
指名選手
 
日本の旗 野球日本代表
日本の旗 野球日本代表 - 1974年日米大学野球選手権大会
監督
コーチ
投手
捕手
内野手
外野手
日本の旗 野球日本代表 - 1975年アジア野球選手権大会 2 2位
監督
コーチ
投手
捕手
内野手
外野手
日本の旗 野球日本代表 - 1976年日米大学野球選手権大会
監督
コーチ
投手
捕手
内野手
外野手
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