黎恭皇

恭皇 黎椿
後黎朝
第12代皇帝
王朝 後黎朝
在位期間 1522年7月22日 - 1527年5月15日
姓・諱 黎椿(黎藘)
諡号 恭皇帝
生年 端慶3年7月26日
1507年9月2日
没年 明徳元年6月15日
1527年7月12日
黎漴
端穆皇后鄭氏鸞
后妃 阮皇后
陵墓 華陽陵
元号 統元 : 1522年 - 1527年
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
大越史記全書/本紀巻之十五 黎皇朝紀

黎恭皇(れいきょうこう、ベトナム語: Lê Cung Hoàng)は、後黎朝大越の第12代皇帝(在位:1522年 - 1527年)。名は黎 椿(れい ちん、ベトナム語: Lê Xuân)または黎 藘(れい りょ、ベトナム語: Lê Lự[1]

生涯

錦江王黎漴(中国語版)鄭氏鸞(中国語版)の子で、聖宗の曾孫で、昭宗黎椅の同母弟にあたる[1]光紹7年(1522年)、昭宗は専権を振るう仁国公莫登庸に不満を募らせ、一部の廷臣と共に山西の明義県にある夢山に籠もる[2]と、西都城に拠る鄭綏(中国語版)も昭宗の莫登庸討伐の命に応じた。これに対して莫登庸は、昭宗が君側の奸に唆されたとして、昭宗に同行しなかった同母弟の黎椿を皇帝に擁立し[3][4]、昭宗を陀陽王に落とした。良文侯阮時雍(ベトナム語版)の娘(莫登庸の妻の阮氏玉璇の姉)を皇后とした[1]

恭皇を擁した莫登庸は統元3年(1524年)に山東侯莫厥(莫登庸の弟)・瓊渓侯武護・陽川侯武如桂らに西都城を攻めさせて鄭綏を戦死させ、黎椅を捕らえて昇龍に幽閉した。鄭綏の死後、表立った反対者がいなくなった莫登庸は統元5年12月8日(1527年1月9日)、沛渓伯范金榜に黎椅を殺害させ、翌統元6年4月16日(1527年5月15日)には東閣大学士の皆源伯阮文泰に詔を起草させて恭皇にも禅譲を迫った[2][3][5]。ここに後黎朝はいったん滅び、莫朝が成立した。譲位後の黎椿は恭王に降封されて西内宮に幽閉され、明徳元年6月15日(1527年7月12日)に母の鄭氏鸞と共に自害を強要された[1]

死後、皇帝の礼をもって御天県(中国語版)(現在のフンハ県フンニャン市鎮(ベトナム語版))にある華陽陵に葬られた。

出典

  1. ^ a b c d 大越史記全書』本紀巻之十五 黎皇朝紀 恭皇帝
  2. ^ a b 王民同 2016, 黎朝期后的特点
  3. ^ a b 八尾 2006, p. 10
  4. ^ ベトナム史略』 第1巻 第3部 第15章 黎氏
  5. ^ "莫登庸". ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンクより2020年7月10日閲覧

参考資料

  • 王民同(中国語簡体字)『王民同学術文選』雲南大学出版社雲南人民出版社、2016年4月1日。ISBN 978-7548226062。 
  • 八尾隆生「ヴェトナム前期黎朝の滅亡と清化集団の再編」『史学研究』第251号、広島史学研究会、2006年3月31日、1-26頁、ISSN 0386-9342。 
先代
昭宗
後黎朝の第12代皇帝
1522年 - 1527年
次代
荘宗
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