相良頼綱

相良 頼綱(さがら よりつな、1876年明治9年)11月17日 - 1966年昭和41年)12月19日[1])は、大正時代から昭和時代の華族相良氏第37代当主。子爵人吉藩14代藩主相良頼基の4男。

経歴

1892年(明治25年)7月、学習院初等学科を卒業。外国語学校に進学。後に林学を学ぶ。帝室林野管理局技手に採用される。辞職後、山林を経営する。1924年(大正13年)、養父頼紹の死去にともない、家督を相続する。1954年(昭和29年)人吉市名誉市民第1号となる。墓所は相良氏代々の菩提寺である願成寺。

家族

  • 父:相良頼基
  • 母:金 - 嶋田清助の長女
  • 養父:相良頼紹
  • 正室:壽子 - 稲葉久通の娘
  • 子女
    • 男子:相良頼知(よりのり)
    • 男子:相良綱二
    • 女子:嶋子 - 真田幸治夫人
    • 女子:充子 - 伊藤銃次郎夫人

栄典

脚注

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  1. ^ 『人吉市史』第1巻(人吉市、1981年)p.936
  2. ^ 『官報』第5644号「叙任及辞令」1902年5月1日。
  3. ^ 『官報』第3533号「叙任及辞令」1924年6月4日。
  4. ^ 『官報』第5398号「宮廷録事」1945年1月16日。
日本の爵位
先代
相良頼紹
子爵
人吉相良家第2代
1924年 - 1947年
次代
華族制度廃止
肥後相良氏第37代当主(1924年 - 1966年)

長頼 - 頼親 - 頼俊 - 長氏 - 頼広 - 定頼 - 前頼 - 実長 - 前続 - 堯頼 - 長続 - 為続 - 長毎 - 長祗 - 長定 - 義滋 - 晴広 - 義陽 - 忠房 - 頼房 - 頼寛 - 頼喬 - 頼福 - 長興 - 長在 - 頼峯 - 頼央 - 晃長/頼完 - 福将 - 長寛 - 頼徳 - 頼之 - 長福 - 頼基 - 頼紹 - 頼綱 - 頼知 - 知重

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