独立準備委員会

独立準備委員会(どくりつじゅんびいいんかい)は、大日本帝国軍政時代にインドネシアに設置された、インドネシア独立の準備のために政体、領域その他の諸問題をインドネシア人委員が審議、議案採択する機関で、先に設立され成功裏に完了した独立準備調査会の成果を受け継ぎ、独立宣言草案、憲法草案等を採択し実施に移すものである[1]。なお終戦期にインドネシア側は独自の裁量で委員を追加しており、インドネシア人独自の機関とも言える側面を持つ。

概要

独立準備委員会は、委員長をスカルノ、副委員長をハッタとし、他に19名の委員、合計21名(ジャワから12名、スマトラから3名、スラウェシから2名、ボルネオカリマンタン)から1名、小スンダから1名、マルク(モルッカ)から1名、華僑代表1名)からなる委員会である[2][3]。委員は8月初頭[4]に任命されており、その委員長であるスカルノと副委員長のハッタは同年8月11日サイゴン郊外のダラットにおいて寺内寿一大将より8月中のインドネシア独立許与の日本政府の意思の伝達を受けた。当初8月18日に第1回正式会合が行われる予定であったが8月15日に終戦を迎えたため、インドネシア人委員達は、8月17日[5]に独立宣言した後、8月18日に総会を開き、先に起草されていた憲法序文草案と、憲法本文草案を審議し、一部を修正して採択し、即日布告、施行した[6]

参考文献

  • アフマッド・スバルジョ著、奥源造編訳『インドネシアの独立と革命』龍渓書舎、1973年

脚注

  1. ^ アフマッド・スバルジョ著、奥源造編訳 (1973)『インドネシアの独立と革命』192頁。
  2. ^ アフマッド・スバルジョ著、奥源造編訳 (1973)『インドネシアの独立と革命』192頁。
  3. ^ 終戦期にインドネシア側独自の裁量で6名追加され、合計27名となったとされる(id:Panitia Persiapan Kemerdekaan Indonesia)。
  4. ^ アフマッド・スバルジョ著、奥源造編訳 (1973)『インドネシアの独立と革命』119頁によれば、1945年8月11日任命である。同年8月7日任命であったとする資料もある(id:Panitia Persiapan Kemerdekaan Indonesia)。
  5. ^ 終戦による独立頓挫を恐れ、即時の独立のためには武力衝突も辞さない急進派青年グループによるスカルノ及びハッタの拉致事件(レンガス・デンクロック事件)等事態の急転に鑑み、インドネシア人委員達は8月16日深夜に前田精日本海軍少将邸宅に集まり、独立宣言文案の確認と承認を行った。アフマッド・スバルジョ著、奥源造編訳 (1973)『インドネシアの独立と革命』146頁。
  6. ^ アフマッド・スバルジョ著、奥源造編訳 (1973)『インドネシアの独立と革命』193頁。
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関連する出来事
  • 1:共通法第1条の規定により、樺太は内地に包含された。
  • 2日本政府の立場では、満洲の独立は地元住民の自発的な意志に依るものであり、中国の行政・領土的保全を約する九カ国条約の遵守と満洲国の承認は矛盾するもので無かった。
  • 3:日本は内蒙古を中国本土とは異なる地域として扱かっていたが、現地の政治権力上は中国内の自治行政区画に留められた。
  • 地方自治の為に設置された組織。現地の意向に関係なく、日本には中央政府へ発展させる意図がなかった。
  • :大東亜会議開催(1943年)以前に消滅した組織。
  • :日本政府から政府承認を受ける前に消滅した組織。
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