牧野輝智

牧野輝智
1934年
人物情報
生誕 1879年1月4日
日本の旗 日本 熊本県鹿本郡豊田村(現・熊本市南区 )
死没 (1941-08-29) 1941年8月29日(62歳没)
学問
研究分野 財政学
研究機関 早稲田大学海軍経理学校
学位 経済学博士東京帝国大学
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牧野 輝智 (まきの てるとし 1879年明治12年)1月4日 - 1941年昭和16年)8月29日)は、日本ジャーナリスト経済学者。専門は財政学。学位は経済学博士東京帝国大学

略歴

牧野鼎藏の三男として熊本県に生まれる。東京専門学校(現在の早稲田大学)を1897年(明治30年)に卒業して、熊本県立商業学校佐賀県立佐賀中学校暁星中学校等の教壇に立つ。

同郷である清浦奎吾農商務大臣の推薦により、農商務省特許局嘱託の農商務大臣秘書を務め、清浦大臣と久米金弥特許局長が創設した工業所有権保護協会の機関誌『工業所有権雑誌』の主幹を務めた[1]。この協会機関誌の連載をまとめた『現代発明家伝』は、高峰譲吉豊田佐吉山田猪三郎御木本幸吉山葉寅楠ら明治期28人の発明家が登場している[2]

博士ジャーナリスト

1911年(明治44年)に東京朝日新聞社へ入社、経済解説記事で頭角を現し、経済部長、政治経済部長を歴任する。 村山龍平が政界出馬準備をしていた安藤正純編集局長を更迭した後は、神田正雄緒方竹虎美土路昌一らと共に編集委員として合議制で編集局内を統括する[3]1925年(大正14年)編集主幹に就く。 この年に牧野が朝日新聞紙面に連載した経済解説記事をまとめて刊行された『通俗財話』は一年で15万部、版を60回重ねる大ベストセラーとなった[4]。『為替問題十講』では、英国、米国、仏国、独国、中国などの為替問題を取り上げ説明することで、為替上の原理原則や一般経済との因果関係を一般読者向けに解説した[5]

経済部長時代に、鈴木英雄からの依頼で河野一郎を校閲係として採用している[6]

1929年(昭和4年)、欧州大戦後の貨幣上の実際現象を中心とした研究をまとめた『貨幣学の実証的研究』により東京帝国大学で5人目となる経済学博士となる[7]。新聞記者として珍しい「博士ジャーナリスト」として知られ、朝日新聞紙面や『朝日常識講座』、『中央公論』、『経済往来』などで物価論、財政論など数々の経済論文を発表した[8][9]。  

牧野財政

1931年(昭和6年)に中央大学講師を務め、1934年(昭和9年)に朝日新聞社定年により顧問に退くと、早稲田大学教授(財政学)に転身、海軍経理学校教授、東京商科大学講師も務める[10]

経済学の中でも貨幣の学理は最も科学的であるという考えから貨幣論ではなく貨幣学という言葉で、貨幣に関する実際的問題を材料とする帰納的研究を行う[11]。 貨幣が貨幣として流通するのは、購買力に対して一般公衆の信任があるとする購買力信任説を打ち出し、第一次世界大戦後の各国の為替崩壊の原因を経済力信用の破壊と指摘、為替相場決定の要因に経済力信用を見い出した[12]

専門の財政学では、財政の具体化・計数化である予算を理解しなければ財政現象の理解は困難という考えに基づき、財政理論の一般的通説を土台にしながら、時々の財政現象、理論、政策を考察した。『日本財政論』はハーバード大学の委嘱により、日本財政研究の資料として執筆され、予算制度、歳計、租税、国債、地方財政の側面から解説した[13][14]。『財政学要綱』では財政理論、財政政策、財政現象を財政学の修行者向けに説明している[15]

難しい経済問題を明解な論旨でわかりやすく展開する解説記事は天才的な筆致と評された。 1941年(昭和16年)8月31日の朝日新聞は、「その永年にわたる研鑽と体験から生まれた深淵な『牧野財政』の名は学会に隠然たる地歩を占め、その教壇における迫力ある名講義は学生間に定評があった。」と、牧野の追悼記事を掲載した[16]

著書

  • 『現代発明家伝』帝国発明協会、1911年。https://dl.ndl.go.jp/pid/777757/1/1 
  • 『円価の低落と国民の覚悟』教化団体聯合会、1925年。https://dl.ndl.go.jp/pid/964132/1/1 
  • 『為替問題十講』日本評論社、1925年。https://dl.ndl.go.jp/pid/1018563/1/2 
  • 『農村問題大系 第五編 農業金融』日本評論社、1926年。https://dl.ndl.go.jp/pid/1716495/1/1 
  • 『朝日常識講座 第7巻 物価の話』朝日新聞社、1929年。https://dl.ndl.go.jp/pid/1186507/1/1 
  • 『現代産業叢書 第6巻 世界産業大観』日本評論社、1929年。https://dl.ndl.go.jp/pid/1162862/1/1 
  • 『貨幣学の実証的研究』日本評論社、1929年。https://dl.ndl.go.jp/pid/1442458/1/3 
  • 『金融論現代経済学全集第14巻』日本評論社、1930年。https://dl.ndl.go.jp/pid/1281623/1/3 
  • 『予算の話第二朝日常識講座第4巻』朝日新聞社、1930年。https://dl.ndl.go.jp/pid/1710521/1/4 
  • 『明治大正史第3巻(牧野輝智編著)経済編』朝日新聞社、1930年。https://dl.ndl.go.jp/pid/1217427/1/1 
  • 『財政概論』日本評論社、1935年。https://dl.ndl.go.jp/pid/1279486/1/3 
  • 『日本財政論』日本評論社、1937年。https://dl.ndl.go.jp/pid/1278506/1/3 
  • 『財政学要綱』日本評論社、1938年。https://dl.ndl.go.jp/pid/1268047/1/3 
  • 『新金融論 経済学体系第7巻』日本評論社、1938年。https://dl.ndl.go.jp/pid/1277623/1/3 

家族

  • 父・牧野鼎藏
  • 妻・菊子(明二三、一一生)、東京、雜賀正市四女
  • 長男・輝夫 (明四四、一生)
  • 長女・富美子 (大元、一〇生)
  • 三女・峰子(大三、一〇生)
  • 二男・邦夫(同七、一生)
  • 四女・和子(同一〇、七生)
  • 三男・東彦(同一三、七生)
  • 五女・千惠子(同一五、五生)

[17][18]

脚注

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  1. ^ 上久保敏『日本の経済学を築いた五十人 : ノン・マルクス経済学者の足跡』262頁「博士ジャーナリスト牧野輝智—経済知識の優れた啓蒙家」、日本評論社、2003年
  2. ^ 『現代発明家伝』帝国発明協会、1911年
  3. ^ 『朝日新聞社史』273頁、1990年)
  4. ^ 上久保敏『日本の経済学を築いた五十人 : ノン・マルクス経済学者の足跡』262頁「博士ジャーナリスト牧野輝智—経済知識の優れた啓蒙家」、日本評論社、2003年
  5. ^ 『為替問題十講』,日本評論社,大正14
  6. ^ 日本経済新聞2010年8月22日 「自民の剛腕政治家 河野一郎(1)早大の駅伝選手、朝日新聞経て政界に」
  7. ^ 上久保敏『日本の経済学を築いた五十人 : ノン・マルクス経済学者の足跡』264頁「博士ジャーナリスト牧野輝智—経済知識の優れた啓蒙家」、日本評論社、2003年)
  8. ^ 上久保敏『日本の経済学を築いた五十人 : ノン・マルクス経済学者の足跡』261頁~265頁「博士ジャーナリスト牧野輝智—経済知識の優れた啓蒙家」、日本評論社、2003年)
  9. ^ 堀川直義『面接博士のブン屋紳士録』80頁~81頁、秋田書店、1966年)
  10. ^ 『新聞人名辞典』第三巻、1988年
  11. ^ [1]
  12. ^ 上久保敏『日本の経済学を築いた五十人 : ノン・マルクス経済学者の足跡』264・265頁「博士ジャーナリスト牧野輝智—経済知識の優れた啓蒙家」、日本評論社、2003年
  13. ^ 上久保敏『日本の経済学を築いた五十人 : ノン・マルクス経済学者の足跡』265頁「博士ジャーナリスト牧野輝智—経済知識の優れた啓蒙家」、日本評論社、2003年
  14. ^ 『日本財政論』日本評論社、1937年
  15. ^ 上久保敏『日本の経済学を築いた五十人 : ノン・マルクス経済学者の足跡』265頁「博士ジャーナリスト牧野輝智—経済知識の優れた啓蒙家」、日本評論社、2003年
  16. ^ 上久保敏『日本の経済学を築いた五十人 : ノン・マルクス経済学者の足跡』265頁「博士ジャーナリスト牧野輝智—経済知識の優れた啓蒙家」、日本評論社、2003年
  17. ^ 日本研究のための歴史情報 人事興信録データーベース(第8版 [昭和3(1928)年7月、名古屋大学大学院法学研究科)]
  18. ^ 人事興信録(第8版 [昭和3(1928)年7月)]
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