楽安郡

楽安郡(樂安郡、がくあん-ぐん)は、中国にかつて存在した後漢から唐代にかけて、現在の山東省淄博市浜州市東営市にまたがる地域に設置された。

概要

前漢千乗郡を前身とした。

60年(後漢の永平3年)、劉建が千乗王となると、千乗郡は千乗国に改められた[1]95年(永元7年)、千乗国は楽安国と改称された。後漢の楽安国は青州に属し、臨済千乗高苑楽安博昌蓼城寿光の9県を管轄した[2]

265年(晋の泰始元年)、司馬鑑が楽安王に封じられた[3]西晋の楽安国は高苑・臨済・博昌・利益・蓼城・・寿光・東朝陽の8県を管轄した[4]

南朝宋のとき、楽安郡は千乗・臨済・博昌の3県を管轄した[5]

北魏のとき、楽安郡は千乗・博昌・安徳・般の4県を管轄した[6]

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、楽安郡は廃止されて、青州に編入された[7]

621年武徳4年)、唐により渤海郡厭次県棣州と改められた。742年(天宝元年)、棣州は楽安郡と改称された。760年(上元元年)、楽安郡は棣州と改称され、楽安郡の呼称は姿を消した[8]

霍州楽安郡

南朝梁のとき、霍州に楽安郡が置かれた。東魏のとき、新蔡・楽安・潁川の3県を管轄した[6]

脚注

  1. ^ 後漢書』顕宗紀
  2. ^ 『後漢書』郡国志四
  3. ^ 晋書』世祖紀
  4. ^ 『晋書』地理志下
  5. ^ 宋書』州郡志二
  6. ^ a b 魏書』地形志二中
  7. ^ 隋書』地理志中
  8. ^ 旧唐書』地理志一
 
司隷校尉部
豫州刺史部
兗州刺史部
青州刺史部
徐州刺史部
冀州刺史部
幽州刺史部
并州刺史部
朔方刺史部
涼州刺史部
益州刺史部
荊州刺史部
揚州刺史部
交阯刺史部
 
司隷校尉部
豫州刺史部
兗州刺史部
青州刺史部
徐州刺史部
冀州刺史部
幽州刺史部
并州刺史部
涼州刺史部
益州刺史部
荊州刺史部
揚州刺史部
交州刺史部
  • カテゴリ
三国の行政区分
 
魏(咸熙2年、紀元264年)
司州
幽州
冀州
并州
青州
徐州
兗州
豫州
雍州
涼州
荊州
揚州
梁州
益州
西域長史府
晋朝の行政区分
西晋
司州
豫州
兗州
青州
徐州
冀州
幽州
平州
并州
雍州
涼州
秦州
梁州
益州
寧州
荊州
揚州
湘州
江州
広州
交州
東晋
揚州
徐州
北徐州
兗州
豫州
北青州
司州
北雍州
荊州
江州
梁州
益州
寧州
広州
交州