戸田忠真

曖昧さ回避 この項目では、江戸中期の譜代大名について説明しています。同名の水戸藩士については「戸田銀次郎」をご覧ください。
 
凡例
戸田忠真
時代 江戸時代中期
生誕 慶安4年11月11日(1651年12月23日
死没 享保14年10月29日(1729年12月19日
墓所 宇都宮市英巌寺
官位 従五位下日向守能登守従四位下侍従山城守
幕府 江戸幕府奏者番寺社奉行老中
主君 徳川家宣家継吉宗
下総佐倉藩主→越後高田藩主→下野宇都宮藩
氏族 戸田氏
父母 父:戸田忠昌、母:秋元富朝の娘
兄弟 秋元喬知忠真、忠定、忠章、忠恒
毛利高直の娘
忠久、娘(桜井松平忠喬正室)、娘(大河内松平正貞正室)
養子:忠余
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戸田 忠真(とだ ただざね)は、江戸時代中期の大名老中下総佐倉藩主、越後高田藩主、下野宇都宮藩主。宇都宮藩戸田家4代。父は老中で佐倉藩主戸田忠昌、母は秋元富朝の娘。同じく老中の秋元喬知は兄に当たる。

生涯

下総佐倉藩で6万1000石を領した戸田忠昌の次男として生まれる。父が老中として長年現役であったため49歳まで跡継ぎのままであったが、その間忠真自身も寺社奉行として幕政の中にあり、父の所領とは別個に1万石を与えられている。

忠真は厳格公正な性格で知られていた。紀伊藩高野山との間で領地問題で係争が度々あったが、歴代の寺社奉行は御三家の威光を恐れて裁定を引き伸ばすだけだった。忠真は「非は紀伊徳川家にある」と正直に裁定する一方で、高野山の僧徒が幕府の命に背いたことがあるとして、600余人を流罪にした[1]

江戸城中で勅旨御馳走役浅野長矩が高家吉良義央に斬りつける事件があった際、急遽御馳走役の代役を担当した[1]。この際は急遽の職務命令であり、浅野家定紋がついたままの火鉢宇都宮城に置かれているほど現場は混乱した。しかし大任を果たしたにもかかわらず、将軍綱吉の不興を買ったか、同年のうちに越後高田に懲罰的な移封となった[2]

父の死後、家督相続と同時に寺社奉行を辞任し、一旦幕政から退く。

宝永6年(1709年)に将軍の徳川綱吉が死去し、権勢を振るっていた柳沢吉保も失脚すると、下野宇都宮へと再度関東への移封(帰還)となるが、戸田家は高田より雪の少ないことを非常に喜んだ[2]

正徳4年(1714年)には再び幕政に復帰し[3]、老中として7代将軍徳川家継、8代将軍吉宗の2代に仕えた。正徳5年(1715年)に起こった長州藩徳山藩の問題(万役山事件)の裁定も担当した。

所領は、父とは別に領していた所領を家督相続と同時に本藩所領と合算した上で、弟に3150石を分地したため、都合6万7850石。領国は佐倉から越後高田藩をへて下野宇都宮藩に移る。後に吉宗から1万石を加増され7万7850石となり、戸田家の所領は幕末までこれで推移する。

息子の忠久に先立たれたため、家督は甥で養子の忠余が継いだ[3]

略歴

官職および位階等の履歴

系譜

父母

正室

子女

養子

脚注

  1. ^ a b 坂本 2011, p. 62.
  2. ^ a b 坂本 2011, p. 63.
  3. ^ a b 坂本 2011, p. 64.

参考文献

  • 坂本俊夫『宇都宮藩・高徳藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2011年9月。 

関連項目

戸田家佐倉藩2代藩主 (1699年 - 1701年)
武田徳川家
長沢松平家
小笠原家
土井家
石川家
形原松平家
堀田家(宗家)
大給松平家
大久保家
戸田家
稲葉家
大給松平家
堀田家(相模守家)
戸田家高田藩藩主 (1701年 - 1710年)
堀家
長沢松平家
  • 松平忠輝1610-1616
  • 不祥事その他諸事情により改易
酒井家
福井松平家
越前松平宗家

1681年から1685年まで幕府領

稲葉家
戸田家
久松松平家
榊原家
戸田家宇都宮藩初代藩主 (1710年 - 1729年)
奥平家
本多家(正信系)
奥平家
奥平松平家
本多家(忠義系)
奥平家
阿部家
戸田家
深溝松平家
  • 松平忠祇1749-1762
  • 松平忠恕1762-1774
  • 肥前島原藩に転封
戸田家
徳川家康時代
徳川秀忠時代
徳川家光時代
徳川家綱時代
徳川綱吉時代
徳川家宣・家継時代
徳川吉宗時代
徳川家重時代
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徳川家茂時代
徳川慶喜時代