ロットフレーノの戦い

ロットフレーノの戦い
戦争オーストリア継承戦争
年月日1746年8月10日[1]
場所ミラノ公国ロットフレーノ
結果:決着せず。フランス軍は撤退
交戦勢力
フランス王国の旗 フランス王国
スペイン スペイン王国
ハプスブルク君主国の旗 ハプスブルク帝国
指導者・指揮官
フランス王国の旗 マイユボワ侯爵(英語版)
スペイン ガージェ伯爵(英語版)
ハプスブルク君主国の旗 アントニオット・ボッタ・アドルノ(英語版)
ハプスブルク君主国の旗 マクシミリアン・ウリセス・ブロウネ
戦力
25,000[1] 30,000
損害
6,000 3,000
オーストリア継承戦争
ジェンキンスの耳の戦争
ジョージ王戦争
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ロットフレーノの戦い(ロットフレーノのたたかい、: Battaglia di Rottofreno)、またはロットフレッドの戦い(ロットフレッドのたたかい、: Battaglia di Rottofreddo)は、オーストリア継承戦争中の1746年8月10日ミラノ公国ロットフレーノにおいてフランス軍とオーストリア軍の間で戦われた戦闘。マイユボワ侯爵(英語版)率いるフランス軍はオーストリア軍の攻撃を撃退したが、戦闘の後には撤退した。

経過

ピアチェンツァの戦いで敗北したフランス=スペイン連合軍はポー川を渡って撤退した。オーストリア軍の指揮官アントニオット・ボッタ・アドルノ(英語版)はそれを防ぐべく、セルベローニ伯爵(Serbelloni)率いる前衛部隊を派遣して攻撃を仕掛けた。連合軍は荷物がティドネ川(英語版)の対岸に輸送されるまでロットフレーノを守ったが、オーストリア本軍を前に敗れた。オーストリアのベレンクラウ元帥(Bärenklau)は南からカステル・サン・ジョヴァンニにあるフランスの本軍の側面を攻撃しようとしたが、マスケット銃の銃撃を受けて戦死した[2]。連合軍は戦列を維持したが、やがてトルトーナへの撤退を決定した。その後、ピアチェンツァはオーストリアのナーダシュディ将軍に降伏したが、オーストリアによるピアチェンツァ全体への侵攻は失敗した[3]。いずれにせよ、オーストリアはイタリアの確保に成功した。

脚注

  1. ^ a b Bodart, Gaston (1908). Militär-historisches Kriegs-Lexikon (1618-1905). Vienna. p. 209 
  2. ^ https://www.deutsche-biographie.de/sfz1843.html#adbcontent
  3. ^ Black, Jeremy (2002). America Or Europe?: British Foreign Policy, 1739-63. Hoboken: Taylor and Francis. p. 15 

参考文献

  • World History at KMLA
  • Janko, Wilhelm Edler von, "Bärenklau zu Schönreith, Johann Leopold Freiherr von" in: Allgemeine Deutsche Biographie 2 (1875), S. 59 [Online-Version]; URL: https://www.deutsche-biographie.de/gnd135853958.html#adbcontent GERMAN
  • Plan de la Battaille donnée de l'Armée Imperiale Royale d'Hongrie à l'Armée Espagnole Francaise le 10te. Aug. 1746 en Italie près de la Ville Piazenza au Torrent Didionne; URL: https://arcinsys.hessen.de/arcinsys/detailAction?detailid=v4085879 FRENCH
  • Bodart, Gaston, Militär-historisches Kriegs-Lexikon (1618-1905), Wien 1908, p. 209. GERMAN