ノーマン・ラモント

イギリスの旗イギリスの政治家
ノーマン・ラモント
The Lord Lamont of Lerwick
2018年3月
財務大臣
任期
1990年11月28日 – 1993年5月27日
首相ジョン・メージャー
前任者ジョン・メージャー
後任者ケネス・クラーク
財務省主席政務官
任期
1989年7月24日 – 1990年11月28日
首相マーガレット・サッチャー
前任者ジョン・メージャー
後任者デヴィッド・メラー
金融担当政務官
任期
1986年5月21日 – 1989年7月24日
首相マーガレット・サッチャー
前任者ジョン・ムーア
後任者ピーター・リリー
防衛調達担当大臣
任期
1985年9月2日 – 1986年5月21日
首相マーガレット・サッチャー
前任者アダム・バトラー
後任者デヴィッド・トレフガルネ
貿易産業担当大臣
任期
1983年6月13日 – 1985年9月2日
首相マーガレット・サッチャー
前任者新設
後任者ピーター・モリソン
キングストン・アポン・テムズ選挙区選出
庶民院議員
任期
1972年5月4日 – 1997年5月1日
前任者ジョン・ボイド=カーペンター
後任者廃止
個人情報
生誕Norman Stewart Hughson Lamont
(1942-05-08) 1942年5月8日(82歳)
スコットランド, シェトランド諸島
政党保守党
配偶者
ローズマリー・ホワイト
(m. 1971; div. 1999)
子供ヒレアー
ソフィー
教育ロレット・スクール

ラーウィックのラモント男爵ノーマン・ステュアート・ヒューソン・ラモント (Norman Stewart Hughson Lamont, Baron Lamont of Lerwick, PC, 1942年5月8日 - )は、イギリス政治家。保守党に所属し、1990年から1993年まで財務大臣を務めた。1998年に一代貴族となっている。

生い立ち

父ダニエル・ラモントと母ヘレン・アイリーンの子としてシェトランド諸島ラーウィックに生まれる。父親は島の外科医であった[1]。ラモントはグリムズビーで成長した[2]スコットランド、マッセルバラのロレット・スクールを卒業した後、ケンブリッジ大学フィッツウィリアム・カレッジに進学、経済学を専攻した[3]。大学では1964年にユニオンの代表となり、その翌年にダンカン・サンディスのアシスタントとなる[4]。彼はまた、ケンブリッジ大学保守協会の議長も務めた。その他 英語圏連合(英語版)アメリカ合衆国ツアーに参加している。

ケンブリッジで彼はマイケル・ハワード、ケネス・クラーク、レオン・ブリタン、ジョン・ガマーらと同時代であったが、全てが保守党の主要人物となった。グループはしばしばケンブリッジ・マフィアと呼ばれた。

ラモントは、中道右派のシンクタンク、ボウ・グループ(英語版)の議長を1971年から72年にかけて務めた。大学卒業後、保守党の中心機関の一部であるCRDで働く。その後、銀行員となる[4]

民間での経歴

ラモントは投資銀行N・M・ロスチャイルド&サンズに就職し、ロスチャイルド・アセット・マネージメントの責任者に就任した[5]

ラモントは現在、working peerとしての役割に加えて、様々な金融関係の企業の取締役およびコンサルタントを務める。彼はヘッジファンドのRABキャピタル、バリ・グループ(貿易商社)の取締役およびロッチ・プロパティ・グループの顧問である。彼はまた、いくつかの投資ファンドの責任者でもある。2008年12月、彼はオンライン広告会社Phormの役員となった[6]。また、バリ・グループの社外取締役およびイギリス・ルーマニア商工会議所の名誉理事長、イギリス・イラン商工会議所の議長である[7]。その他、公的通過金融機関フォーラムの顧問委員会委員として定期的に財政金融システムに関する会議に参加している。

国会議員として

1972年に下院議員となる。

1990年に財務大臣となる。ラモントは財務大臣として黒い水曜日(白い水曜日とも呼ばれる)を経験した政治家である[8]

ジョージ・ソロスが投機攻撃を仕掛けてきた際に、(通貨高を保つための)さらなる金利上昇をラモントは恐れなかったが、ラモント自身は既に大勢は決まったとわかっていた。そして事実上ERMを離脱した。1992年9月16日はジョン・メージャー政権にとって屈辱の日と考えられた[8]。だが現実には英国は独自の金融政策を取り戻し、ポンドは下落し、英国経済の回復を助けた。ERM離脱から2008年の世界金融危機まで、英国は経済成長を続けた[8]

2016年6月に行われたイギリスの欧州連合離脱是非を問う国民投票において、英国のEUからの離脱を支持した[9]。ラモントは、何十万もの移民を受け入れるのを良しとする経済的な議論はなく、英国は移民をコントロールしなければならないと述べている。貿易についても、ドイツにとって英国は大きな輸出先であり、英国との貿易協定が決まらないことにはドイツの自動車メーカーの収益にとって不確定性となるだろうとし、EU離脱後に英国がEUとの貿易協定を結べると論じている[9]



参照

  1. ^ Castle, Stephen (1992年10月3日). “The Crisis: Would the real Norman Lamont please stand up?:” (英語). The Independent. 2016年5月24日閲覧。
  2. ^ Mirror, 5 March 2013 : http://www.mirror.co.uk/news/uk-news/kate-middleton-grimsby-top-10-1721834.
  3. ^ “Lord Norman Lamont”. 2009年5月1日閲覧。
  4. ^ a b K. Laybourn, British Political Leaders: Biographical Dictionary, ABC-CLIO (2001)
  5. ^ William Keegan; Alex Brett (2007年7月22日). “Mr Lamont's dark history”. London: Guardian. http://www.guardian.co.uk/business/2007/jul/22/conservativeparty.politics 2010年5月30日閲覧。 
  6. ^ http://www.theregister.co.uk/2008/12/01/phorm_board/
  7. ^ [email protected]. “British-Iranian Chamber of Commerce - The BICC Board”. Bicc.org.uk. 2010年5月30日閲覧。
  8. ^ a b c Black Wednesday: The day that Britain went over the edgeP. Johnson, The Daily Telegraph, Finance, 10 Sep 2012
  9. ^ a b EU referendum: Former Tory chancellor Lord Lamont backs BrexitP. Dominiczak, The Daily Telegraph, 1 Mar 2016

参考文献

  • Lamont, Norman (1999). In Office. Little Brown. ISBN 0-7515-3058-1  (autobiography)

外部リンク

ウィキクォートにノーマン・ラモントに関する引用句集があります。
  • Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Norman Lamont(英語)
  • Announcement of his introduction at the House of Lords House of Lords minutes of proceedings, 19 October 1998
グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国議会
先代
ジョン・ボイド=カーペンター
キングストン・アポン・テムズ選挙区選出
庶民院議員

1972年 - 1997年
Constituency abolished
公職
先代
ジョン・ムーア
金融担当政務官
1986年 - 1989年
次代
ピーター・リリー
先代
ジョン・メージャー
財務省主席政務官
1989年 - 1990年
次代
デヴィッド・メラー
財務大臣
1990年 - 1993年
次代
ケネス・クラーク
第二大蔵卿
1990年 - 1993年
イギリスの旗 イギリスの財務大臣
イングランド
  • ユースタス・オブ・ファーコンバーグ(英語版)1221頃-?
  • マンセル(英語版)1234頃-?
  • レスター1248以前
  • ウェストミンスター1248-?
  • フィスキャンプ1263以前
  • チスハル(英語版)1263-1265
  • W.ジフォード(英語版)1265-1266
  • G.ジフォード(英語版)1266-1268
  • チスハル(英語版)1268-1269
  • ミドルトン(英語版)1269-1272
  • ド・レ・レイエ1283以前
  • ニューバンド1283以前
  • ウィロウビー(英語版)1283-1305
  • ベンスティディ(英語版)1305-1306
  • サンデール(英語版)1307-1308
  • マーケンフィールド1309-1312
  • ホーサム(英語版)1312-1316
  • スタントン(英語版)1316-1323頃
  • ステープルドン(英語版)1323-1324頃
  • スタントン(英語版)1324-1327
  • ハーヴィントン(英語版)1327-1330
  • ウッドハウス(英語版)1330-1331
  • ストラトフォード(英語版)1331-1334
  • ヒルデスリー1338頃-?
  • エヴァードン1341-?
  • アスケビー1363-?
  • アシュトン(英語版)1375-1377
  • バーナム1377-1399
  • ソマー(英語版)1410-1437
  • サマセット(英語版)1441-1447
  • ブラウン(英語版)1440頃-1450頃
  • ウィザム(英語版)1454-?
  • ファウラー(英語版)1469-1471
  • スウェイツ(英語版)1471-1483
  • ケイツビー(英語版)1483-1484頃
  • ラベル(英語版)1485-1524
  • バーナーズ男爵(英語版)1524-1533頃
  • エセックス伯爵1533-1540
  • ベイカー(英語版)1545-1558
  • サックヴィル(英語版)1559-1566
  • マイルドメイ(英語版)1566-1589
  • フォーテスキュー(英語版)1589-1603
  • ダンバー伯爵(英語版)1603-1606
  • シーザー(英語版)1606-1614
  • グランヴィル(英語版)1614-1621
  • ウェストン(英語版)1621-1628
  • バレット卿(英語版)1628-1629
  • コティントン男爵(英語版)1629-1642
  • カルペパー(英語版)1642-1643
  • ハイド1643-1646
  • 空位期(英語版)1646-1660
  • ハイド1660-1661
  • アシュリー男爵1661-1672
  • ダンクーム1672-1676
  • アーンリ(英語版)1676-1689
  • デラマー男爵(英語版)1689-1690
  • ハムデン(英語版)1690-1694
  • モンタギュー1694-1699
  • スミス1699-1701
  • ボイル1701-1708
グレートブリテン
  • ボイル1708-1710
  • スミス1708-1710
  • ハーレー1710-1711
  • ベンソン1711-1713
  • ウィンダム1713-1714
  • オンズロー1714-1715
  • ウォルポール1715-1717
  • スタンホープ伯爵1717-1718
  • エイズラビー1718-1721
  • プラット(代理)1721
  • ウォルポール1721-1742
  • サンズ1742-1743
  • ペラム1743-1754
  • リー(代理)1754
  • ビルソン=レッグ1754-1755
  • リトルトン1755-1756
  • ビルソン=レッグ1756-1757
  • マンスフィールド男爵(英語版)1757
  • ビルソン=レッグ1757-1761
  • バリントン子爵1761-1762
  • ル・ディスペンサー男爵1762-1763
  • グレンヴィル1763-1765
  • ダズウェル(英語版)1765-1766
  • タウンゼンド1766-1767
  • ノース卿1767-1782
  • キャヴェンディッシュ(英語版)1782
  • 小ピット1782-1783
  • キャヴェンディッシュ(英語版)1783
  • 小ピット1783-1801
  • アディントン1801-1804
  • 小ピット1804-1806
  • エレンバラ男爵(英語版)(代理)1806
  • ペティ=フィッツモーリス1806-1807
  • パーシヴァル1807-1812
  • ヴァンシッタート(英語版)1812-1817
連合王国
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