デニス・ベルカンプ
名前 本名 デニス・ニコラース・マリア・ベルカンプ 愛称 アイスマン ノン・フライング・ダッチマン king of trap カタカナ デニス・ベルカンプ ラテン文字 Dennis BERGKAMP 基本情報 国籍 オランダ 生年月日 (1969-05-10 ) 1969年 5月10日 (55歳) 出身地 アムステルダム 身長 183cm 体重 81kg 選手情報 ポジション FW (ST) 利き足 右足 ユース 1975-1981 ゴーゼンミッデンメール 1981-1986 アヤックス クラブ1 年 クラブ 出場 (得点) 1986-1993 アヤックス 185 (103) 1993-1995 インテル・ミラノ 52 (11) 1996-2006 アーセナル 315 (87) 代表歴 1989 オランダ U-21 2 (0) 1990-2000[1] オランダ 79 (37) 監督歴 2011-2017 アヤックス (アシスタントコーチ) 1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj
デニス・ベルカンプ (Dennis Nicolaas Maria Bergkamp 、1969年 5月10日 - )は、オランダ の首都アムステルダム 出身の元同国代表 サッカー選手 。ポジションはFW。「アイスマン 」、「ノン・フライング・ダッチマン 」のニックネームを持つ。
選手経歴 アヤックス 11歳の時にWilskrachtでプレーしていたベルカンプはアヤックスにトレーニング参加を打診されたが、「当時アヤックスを傲慢なクラブと思っていた」という理由で拒否[2] 。しかし1年後に同意し、12歳でアヤックス のユースに入ったベルカンプは、ヨハン・クライフ に才能を見出され1986-87シーズン、1986年12月14日のローダJC 戦でトップチームにデビューを果たした[3] 。2月のハーレム戦で初ゴールを決めた[3] 。クライフが監督を退くと満足な出場機会を得られない時期もあったが[4] 、アヤックスで1990年 から3年連続得点王に輝いた。1991-92シーズンのUEFAカップ 決勝では得点こそ挙げられなかったが、PKを奪取する活躍で優勝に貢献、大会通算では6ゴールを挙げた[5] 。アヤックスでは239試合に出場し、122ゴールを挙げた。
インテル 1993-94シーズン、当時としてはかなり高額な移籍金約20億円で[6] 、大きな期待を受けて、アヤックスと代表でチームメートであったヴィム・ヨンク と共にインテル に移籍。アヤックスでは、攻撃的MFとしてプレーしていたが、インテルではセカンドストライカーとしての起用されることとなった[7] 。UEFAカップ においてはFCラピド・ブカレスト でのハットトリックを含む[8] 、11試合8ゴールを決める活躍でUEFAカップ獲得の原動力となった。国内リーグでは第3節のクレモネーゼ 戦で移籍後初ゴールを決めたが[8] [7] 、合計8ゴール(PKで5ゴール)[8] 全く能力を発揮できず、ルベン・ソサ とのコンビネーションも全く噛み合わず[7] 、チームは13位と、何とかセリエB降格を脱がれる始末だった[7] 。1994-95シーズンは開幕のトリノFC 戦でゴールを決める良いスタートを切ったが[8] 、次第にベンチを温める様にもなり、リーグ戦では僅か2ゴールに終わった[8] 。
アーセナル チェルシー への移籍話が進み、既にロンドンに滞在していたが、金銭的理由で移籍が破談になり、急遽代理人がアーセナル へ売り込みをかけ[9] 、アーセナル に移籍しチームの中心として活躍。97~98シーズン、01~02シーズンの二冠等に貢献。また、2003-2004シーズン には無敗でプレミアリーグ を制するなど、一時代を築いた。
2005-06シーズン終了をもって引退を表明した。自身がプロデビューを果たしたチームであるアヤックス・アムステルダムとアーセナルの対戦で引退試合が行われ、オランダの往年の名選手であるヨハン・クライフ、元オランダ代表監督マルコ・ファン・バステン 、元FCバルセロナ 監督フランク・ライカールト 、そしてジョバンニ・ファン・ブロンクホルスト やパトリック・ヴィエラ 、ティエリ・アンリ 、デビッド・シーマン 、エマニュエル・プティ 、エドガー・ダーヴィッツ などが出場し、数多くのサッカー関係者がこの日のために駆けつけた。。また、クライフとファン・バステンは当初スタンドから観戦していたが、後半から当時のアヤックスのユニフォーム姿で実際にピッチに立ち、ベルカンプとプレイしている。なお、この試合はアーセナルの新スタジアムのエミレーツ・スタジアム のこけら落し として行われた。
代表経歴 オランダ代表としては、UEFA EURO 1992 に出場、合計3ゴールを挙げ、大会の得点王になった[7] 。また94年アメリカ大会 では5試合で3得点を挙げるなど、準々決勝まで進出した。1998年フランス大会 では、準々決勝アルゼンチン戦で完璧なトラップから賞賛されるゴールなど[10] 、7試合で3ゴールを挙げただけでなく、大会最多タイの記録となる3つのアシストを決め[11] 、準決勝まで進出したが、前回大会と同じくブラジル に破れた。EURO 2000 の準決勝でイタリア に敗れ、代表引退を発表した。
引退後 2008-2009シーズンから古巣アヤックスに指導者として復帰し、コーチングライセンス獲得を目指しはじめた。
アヤックスのビロード革命の結果、ベルカンプは『クラブカルチャーの番人』として2011年夏からトップチームでヘニー・スパイケルマンと共にフランク・デ・ブール のアシスタントコーチに就任。クラブのスポーツ面の方針を決定するテクニカル・ハートのメンバーにもなった。2016年夏にピーター・ボス が監督に就任した際もアシスタントに留まったが、このシーズンはベンチには座っていない。ボスが1シーズンで去った後もマルセル・カイザーのアシスタントとして留まったが、ベンチには座らず、アウェーゲームにも帯同しなかった。ボスが1シーズンでアヤックスを去ったのは、ベルカンプらとの衝突でクラブ運営陣から十分な支持が得られなかったことが理由と報道され、ベルカンプは衝突自体を否定したが[12] 、カイザーの監督就任を強く主張した本人と言われていた[13] こともあり、2017-2018シーズン前半のアヤックスが不安定だった最大の責任者として、毎試合のようにベルカンプは、アヤックス・サポーターからのブーイングを受けることになった。2017年12月21日にシーズン前半戦の不安定な成績から現状のテクニカル・スタッフでは立て直しが困難との理由で、既に形骸化していたテクニカル・ハートの残りメンバーで対立関係にあったマルク・オーフェルマルス によってカイザー、スパイケルマンと共に解任された。その後契約解除は不当だと長く争っていたが、結局KNVBの仲裁委員会に持ち込まれることは無く、協議の末に2018年7月20日に弁護士のハロ・クナイフが、契約にある金銭による契約解除条件を理由に公式にアヤックスを去ることが決まったと認めた[14] 。
エピソード・人物 デニスというファーストネームは、マンチェスター・ユナイテッド の名FW、デニス・ロー にあやかって名づけられた。"n"が一つ多いのは、オランダで "Denis" は女性名と間違われる恐れがあるとの理由で市役所が認可せず、父親が追加したためである。愛称のアイスマン は、そのパワーと冷静さによる正確な決定力の他、顔が俳優のヴァル・キルマー (『トップガン』でアイスマン役を演じた)に似ていることから名付けられた。 極度の飛行機恐怖症 という弱点を持つことでも有名である[15] 。このため"The flying Dutchman"(フライング・ダッチマン、「空飛ぶオランダ人」)をもじって"The non-flying Dutchman "[15] (ノン・フライング・ダッチマン、「飛ばないオランダ人」)とも呼ばれた。飛行機恐怖症の理由として、「乗っていた飛行機 が爆破予告の対象になり、それがトラウマ になっている」、「機中で同行記者に不安を煽ることを言われた」、「自分が乗る予定だった飛行機に乗った友人が航空事故で亡くなった」等の諸説がある。このため、遠隔地への遠征に陸路でしか参加できなかったことがチームの監督を悩ませていた。 アーセナル時代のチームメイトであるティエリ・アンリ が憧れの選手に挙げている。 FA がプレミアリーグ発足10年を記念して企画したベストゴール特集で1位を獲得したことがある(2002年3月3日のニューカッスル・ユナイテッドFC 戦で相手DFを鮮やかな振り向きトラップでかわして決めたゴール)。 息子のミッチェル・ベルカンプ(1998年生まれ[16] )と甥のロランド・ベルカンプ(Roland Bergkamp)もサッカー選手であり2015年 現在、前者はアルメレ・シティFC 、後者はFCエメン に所属している。 子供の頃のアイドルはグレン・ホドル [9] 。 タイトル アーセナルでのベルカンプ クラブ 個人 個人成績 代表歴 ウィキメディア・コモンズには、デニス・ベルカンプ に関連するメディアがあります。
代表デビュー:1990年9月26日 イタリア 戦 代表キャップ:79試合 得点記録:37得点(歴代4位) 2000年8月10日に代表引退を発表 出典 ^ “Dennis Bergkamp - Goals in International Matches” (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation. http://www.rsssf.com/miscellaneous/bergkamp-intlg.html ^ https://www.voetbalprimeur.nl/nieuws/731429/bergkamp-ik-zei-nee-we-vonden-ajax-toen-een-arrogante-club-.html ^ a b “「あのクライフがアーセナル史上“最も美しい”天才を怒らせた日」日本のファンにも愛されたベルカンプの伝説「じつは進学校に通う秀才だった」1”. NUMBER (2023年5月4日). 2023年5月5日 閲覧。 ^ “「あのクライフがアーセナル史上“最も美しい”天才を怒らせた日」日本のファンにも愛されたベルカンプの伝説「じつは進学校に通う秀才だった」2”. NUMBER (2023年5月4日). 2023年5月5日 閲覧。 ^ “「あのクライフがアーセナル史上“最も美しい”天才を怒らせた日」日本のファンにも愛されたベルカンプの伝説「じつは進学校に通う秀才だった」3”. NUMBER (2023年5月4日). 2023年5月5日 閲覧。 ^ ストライカー 1993年9月5日号 p.108-114 ^ a b c d e “Il paradosso di Bergkamp all'Inter: capocannoniere in Coppa UEFA e flop in Serie A”. GOAL . 2023年8月7日 閲覧。 ^ a b c d e “Bergkamp Inter All Goals”. www.transfermarkt.com. https://www.transfermarkt.com/dennis-bergkamp/alletore/spieler/3187/plus/0?saison=&verein=46&liga=&wettbewerb=&pos=&minute=&pos=&torart=&stand= 2020年5月3日 閲覧。 ^ a b “ベルカンプはチェルシーとの契約のためロンドンを訪れた? 代理人が明かすアーセナルへの移籍秘話”. The World (2024年4月5日). 20204-4-6 閲覧。 ^ “World Cup moments: Dennis Bergkamp’s perfect goal in 1998”. IRISH TIMES . 2023年3月16日 閲覧。 ^ “Top assisters at Qatar 2022”. FIFA . 2023年3月16日 閲覧。 ^ https://www.nu.nl/voetbal/4749951/bergkamp-ontkent-ruzie-bij-ajax-met-vertrokken-bosz.html ^ https://www.voetbalprimeur.nl/nieuws/784363/-bergkamp-werd-gevreesd-vanwege-die-macht-hij-kon-meedogenloos-zijn-.html ^ https://www.parool.nl/sport/dennis-bergkamp-is-nu-officieel-weg-bij-ajax~a4601780/ ^ a b “Bergkamp: The non-flying Dutchman”. FIFA.com (2014年5月21日). 2021年2月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年3月13日 閲覧。 ^ http://www.bergkamp10.net
獲得タイトル・記録 1940年代 1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代 最優秀選手賞 - 最優秀若手選手賞
1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
MVP - 得点王 FIFA - AFC - CAF - CONCACAF - CONMEBOL - UEFA
UEFAカップ ヨーロッパ リーグ UCL - UEL - UECL - UCWC
1990年代 2000年代 2010年代 2020年代 得点王 - 最優秀GK
オランダ代表 - 出場大会 オランダ代表 - UEFA EURO '92 準決勝進出
オランダ代表 - 1994 FIFAワールドカップ
オランダ代表 - 1998 FIFAワールドカップ 第4位
オランダ代表 - UEFA EURO 2000 準決勝進出
典拠管理データベース
全般 国立図書館
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